それから2日して、僕はこの国で生き抜いていくためにその仕事の話にのった。勿論オランダ人のデザイナーには少しでも良い条件を得るための多少の張ったりをかました上でだった。
仕事が決まった日、僕は思い切って日本へ電話をかけた。仕事が決まった安心感だけが先にたち、何を話そうかなんて考えもしなかった。
国際電話をコレクトコールでかける場合、まずオペレーターを呼び出し、相手に料金を払う意思があるかどうかオペレーターが確認した上で電話はつないでもらえる。勿論相手とオペレーターの会話は耳に入ってくるわけで、最初有紀が電話に出た声を聞いたときは少し躊躇している自分を感じたが、電話の向こうの有紀もまさかこの電話が僕からのものだとは思っていなかったようで、オペレーターの「この通話をコレクトコールで受けますか。」という英語の質問に一瞬間をおいたのをみると、やはり有紀も驚いていたに違いなかった。よく考えると、有紀がコレクトコールでもいいから声を聞きたいと手紙に書いたのは一月以上も前のことだから無理もないと思った。
ただそのときになっても、僕はいったい何から話し出せばいいのか迷っていたけど、僕の心配をよそに有紀が僕に対して最初に言った言葉は「遅いですね。」だった。
「ショウさん。オランダにいますよね。手紙はずいぶん前に受け取って読んでくれましたよね。」
僕としては1年ぶりの会話だから「嬉しい。どうしてるの、元気。ワー・・・。」なんて、ハイテンションの会話から始まるだろうと思っていたのに、意外にも有紀は怒っていた。というよりも長い間僕から何の連絡もなかったことに怒っている様子だった。
「ショウさんの予定から考えると1ヶ月前にはオランダに入って、たぶん私の手紙はすぐに受け取ってくれて、無事だという電話はすぐにかけてくれると思っていました。もうそれなのにいったいどれだけ経ってると思いますか。私はもしかしたら何かあったのかもしれなって思ってずっと待ってたのに。」
そういわれても僕には返答のしようもなかった。どういう理由があって僕が有紀に対してそこまで気をまわす必要があるのか。あなたにそこまで心配してもらうこともない。と言おうと思ったけど、よく考えたらこっちから電話をした関係上言うのはやめた。
僕は長い話になるけど通話料金の方はいいのかと気を回して聞いて、有紀にオランダに入ってからのことをかいつまんで話した。
職探しがうまくいかなくて一度は帰国を考えたこと。日本人の経営する旅行代理店の主人に仕事を紹介してもらい、その仕事の話が今日決まったこと。これからの住み家はとりあえず旅行代理店が入ってる建物の屋根裏部屋を借りられるようになったこと。この1ヶ月ずいぶん生活を切り詰めたので精神的にも肉体的にも少し疲れているけど。と、いった時、やっと有紀が小さな声で「ごめんなさい。」といった。
「ごめんなさい。ずっと電話を待っていたので自分の気持ちばかりが先走ってしまって。一番大変だったのはショウさんだったんですもんね。」
僕は急にトーンダウンしてしおらしくなった有紀がおかしかったが、ずっと僕からの電話を待ってくれていたということに対しては複雑な心境だったけど正直うれしくもあった。
「その後有紀さんの方はどうなの。結婚延期しったて知った時は驚いたよ。オーストラリアに居た頃の連中が聞いたらさぞびっくりすることだろうね。」
僕はあえてあの頃の仲間達が有紀の将来に対して不安を感じてたということを口に出すのはさけた。もし口にすれば目一杯張り詰めている有紀の気持ちが潰れるかもしれないと思ったからだ。
「これから何かしたいことでもあるのかい。もう一度海外に出てみるとか。君くらい言葉が喋れて生活慣れしてればじゅうぶんやっていけるだろうね。たった一度しかない人生だから俺みたいに有意義に使うのも一手だと思うけど。」
差しさわりのない言い方をしたつもりだったが、そう言ってしまって僕はしまったと思った。よく考えたら有紀が僕に興味を持つ最大の理由は、今の僕が今の有紀にはない束縛のない世界にいて自由奔放に生きているからで、そこを刺激するような発言はすべきではなかったからだ。
「そうだよな。行こうかな、ショウさんのとこへでも。いろんなとこへ連れて行ってくれますか。そうなったら楽しいだろうな。だけど本当にいいのかな。フフフ・・・。」
僕は心の中で舌打ちをして返答にこまってしまった。
「ほらやっぱり困ってる。ショウさんは生真面目でナイーブなとこがあるからあまり大胆な発言は迷惑かな。フフフ・・・。」
「いやそうじゃなくてあなたなりの新しい生き方でもしてみたらいい。」と僕は有紀に対して言いたかっただけだったのだが、その言葉は飲み込んだ。そしてホローの言葉も見つからず少し黙り込んでしまった。
それからしばらく僕たちはオランダのことについて話したが、なにかぎくしゃくした感じだった。オーストラリアに居た1年前は単なる友達にすぎず、この1年間にしても僕は何通かの手紙を有紀から受け取ってはいるが、僕の中では有紀はあくまでも婚約者のいるただの友達という立場に変わりはなかった。特に相手に婚約者がいるということは何をするにもブレーキが掛かるということで、良い女と見ると果敢にアタックしていくイタリアの男達のようなマネでもできたらもっと違った話ができたかもしれないと後で思った。
61億通りの生き様
それから僕は1月にだいたい一度の割で有紀に電話を掛けるようになった。最初は確かにぎこちなかった会話にも慣れていき、いつの間にか電話で有紀と話す事が楽しく思えるようになった。そして有紀と話し始めてもうひとつ以前と大きく変わったことは、海外にいてちょくちょく孤独感に苛まれていた時が少なくなったことだった。それは受話器をとおしてでも手の届くところに人の温もりを感じることで、僕に常に付きまとっている緊張が和らぐということで、僕にとって非常にプラスになることだった。
仕事の方は意外と思えるほど抵抗なく馴染めていた。3ヶ月経つ頃にはアムステルダムだけではなくロッテルダムやデンハーグにまで仕事の相談に出かけるようになっていた。人口が1千万人、2千万人位の国では、街中で定住している日本人に会うことはあまりないが、こういった特殊な仕事をしていることで彼らと出会う機会が多くなるのも事実で、そうするとその繋がりで次の仕事が舞い込んだり、普通なら話せるチャンスもなかなかないような人に出会えたりして、僕はけっこう楽しんで仕事をしていた。僕はそれまで海外にある日本人社会にはなるべく近づかないようにしていたが、海外で接する小さな日本人社会がありがたく思えたのはこれが最初だった。
ただ有紀に電話をしてそんな話をすると、有紀は決まって羨ましがった。毎日が変化にとんでいて、毎日が新しいものとの出会いの連続という話が、閉じ込められた社会で暮らす人間にとってどれだけ魅力的なものかを有紀はしつこく僕に訴えてきた。
だけどそれでも僕は有紀に気を使うわけでもなく自分のペースでオランダ生活を楽しみ、2、3ヶ月である程度のお金が溜まると北欧や中東に休みを取って出かけた。勿論その都度有紀にはその土地での出来事や情報は伝えた。この頃になると手紙を書くよりも電話で話す事の方が多くなり、僕は今自分がいる場所をよりリアルな感じで伝えてあげようと色んな試みをしたが、なによりも彼女に受けていたのは通り過ぎていく乗り物の音を受話器でひろってあげたり、近くにいる子供達を呼び寄せて声を聞かせてあげることだった。もの凄く遠いところにいても、耳から入る異国の音で色んなことが空想できて楽しい。といつも有紀はいっていた。
僕がオランダに入って半年くらいは、僕と有紀の関係はそんな感じで過ぎていった。
僕と彼女の間にはどうしようもないもの凄い距離がおかれているわけだから、いくら声は聞くことができても、それ以上のことが生まれるなんてことを僕は考えてもみなかった。だけど、有紀はなにを考えているのだろう。婚約者のことをどうするのだろう。という引っかかりは僕の心の中にいつもあった。有紀の気持ちに甘えて電話を掛けているときでも、なにか俺は間違ったことをしてるんじゃないかって思うこともあった。
あれはノルウェーから帰り、オランダで知り合った日本人の友達カップルが結婚することになり、結婚式に招待された時だった。僕は結婚式当日の朝、時間つぶしに思い立って有紀に電話を入れた。有紀と婚約者がどうなっているのか、この際彼女の口からはっきりしたことを聞いておきたかったからだ。
「実は今日友達の結婚式なんだ。といってもこちらの結婚式は日本のようにお金を掛けることは殆どなくてね、今日彼らが結婚式をあげるのも市役所内のそれようの教会さ。ただ少し変わってるのは、一週間前から彼ら2人の結婚のことは道路に面した掲示板に張り出してあってね。この2人の結婚に異議のある人は申し出てください。って貼り出してあったことかな。おもしろいよね。」
「へぇ。オランダってそんなことするんですか。で、何。なにかあったんですか。」
相変わらず知らない世界に対する有紀の好奇心は旺盛だった。
「いや。なにもないさ。日本人ということ以外はごく普通のカップルだからね。でも式を挙げる前に異議のある人を確認するのっていいよね。あいつよりも俺の方が彼女を愛してるんだ。この結婚は許さん。なんて男が出てきたらどうなるんだろう。卒業っていう映画のシーンみたいなことが起こったら感動的だろうねェ。」
有紀は電話の向こうで何かを想像したのだろう、一人で笑っていた。
「知ってるかい。俺はこの前まで北欧にいたけど、一般的に北欧では結婚したいと思ったカップルは1か月間同棲してお互いの相性を確かめたうえで結婚を決めるんだよ。性格の相性だけじゃなくて、SEXの相性も調べるんだってさ。」
「エッ。何それ。」有紀は一瞬躊躇したようだった。僕はSEXって言い方を露骨に出したことはまずかったのかと思ったけど、気を取り直して続けた。
「こっちの社会じゃ街中で20年も30年も一緒だったカップルが、もの凄くべたべたしてるのを見かけることがあるけど、彼らって何年経っても全てがうまくフィットしてるのかなァ。もしそうだったら俺にとってはすごいことだと言えるよな。若かりし頃の情熱や、若かりし頃のSEXが長く継続されるって普通じゃ無理だと思ってるからね。でも性格の相性とSEXの相性って、長く暮らしていくうえでとっても大切な事だというのはわかる。日本人はSEXのことあまり口にしたがらないげど、このふたつのどちらかで片方のパートナーがストレス感じ始めたら、関係維持って難しいんだろうからね。こんな意見どう思う。」
有紀は黙って僕の話を聞いていた。
僕はヌーディスト・ビーチに行ったこともあるし、隣のベットでカップルがこちらのことなどお構いなしにSEXをしていても、もう気にもならなくなっていた。アメリカなどのテレビでは、平気で「アイ・ラブ・SEX]なんてスポーツ感覚でSEXって言葉が使われるけど、開けっぴろげになっている世界に入り込んでしまうと、人間って意外と早く自然にその環境に慣れていくものだ。羞恥心という観念と、見えないものに対する大いなる好奇心は、意外と簡単に取り去れるものだということは、閉ざされた社会から一度出てわかったことだった。
「フフフ。ショウさんたら急に何を言い出すかと思えば・・・。そうね、確かにそうかもしれないわね。恥らう、隠す、慎ましやかに。なんて、最近この国の感覚に押されてるせいか、ちょっとショウさんの話しにたじろいじゃったけど、人間にとって自然で不可欠なことに堂々とオープンに皆が構えればなんでもないことかもね。かえって嫌らしさを感じなくなるかも。」
「へェ。はっきり簡単に受け入れるじゃないか。そうゆうふうに堂々と言えるようなら君はまだこっちでも生きていける人間だな。」
僕は有紀のはっきりした割り切った言い方に少し安心した。吹っ切れた言い方ができるということは、以前の有紀に戻って前向きに物事を考える余裕ができたのだと思った。これなら話しやすかった。本来の頭の良い有紀ならほとんどの受け答えを完璧にするだろうから。
「ところであなたの結婚の方はあれからどうなってるの。」
「婚約のことはですね。完全に解消したんですよ。」
意外とあっさりした答え方だった。
「ショウさんにはもっと早く伝えようと思ったんですが、何をどう伝えていいのかわからなくて。」
「へェ。そうなのか。止めちゃったのか。」
「ピーターが凄く力になってくれて。彼は自分に正直に生きろって何度も言ってくれて。落ち込んでる時も凄く慰めてくれて。彼がいなかったら私相当長く苦しんだかもしれない。」
「そうか。ピーターがね。」
クアラルンプールで別れる時、「有紀によろしく。」っていったら、「自由気ままなボーイフレンドからのメッセージだって伝えておくよ。」そういってウインクしてみせた顔が浮かんだ。
「ピーターがね。この際良い機会だから今一番自分がしたいことをまず考えて、がむしゃらでもいいから行動に移せって言うの。私ってどうも昔から少しばかり石橋を叩くとこがあるんだけど。今の君は一人なんだから、捨てるものも守るものも無いんだから、結果を恐れずに気ままにやるべきだって言うの。」
「それはいいことだと僕も思うよ。結婚を放棄してもう一度何かに人生を掛けるって、もしかしたら結婚を目前に控えてブルーになる女性の、実は本当の願望だったりして。」
「えェ。何バカ言ってるんですか。それとは違います。でも私今働いてる会社は辞めることにしました。これからどうするかはまだ考えてませんが、とりあえず休養かな。最近体調が悪くて。」
体調が悪いという話は僕にとって予期せぬことだった。そして電話のこちら側にいる僕にできることといえば、相手に様子を聞くことくらいしかないわけで、少し焦った。だけど有紀は大丈夫だと言って、それ以上は話そうとはしなかった。多分僕にいらぬ心配をかけさせたくなかったのだと思うが、そろそろ結婚式に出かける時間でしょ、って言って電話を切ってしまった。
一方的に何もわからず電話を切られてしまったことで、有紀の体調のことは僕の心の中でずっと引っかかったままになっていたけど、それから半月ほどして届いた有紀からの手紙は病院で書かれたものだった。